釈尊略伝







梵語のSakyamuni Buddha(シャキャムニ・ブッダ)の音写。仏教の始祖。釈迦文尼・釈迦文・釈迦仏とも音訳し、略して釈迦・釈尊(釈迦牟尼世尊の略)ともいう。釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意、仏は仏陀の略。すなわち釈迦族出身の聖者の意。人類史上、唯一、真理を悟った覚者(仏陀)となった人物が釈迦である。姓は瞿曇Gautama(ゴータマ)、太子名を悉達多Siddartha(シッダルタ)という。父は浄飯王(シュッダ・オーダナ)、母は摩耶(マヤ)。提婆達多(デーバダッタ)・阿難(アーナンダ)とは従兄弟同士になる。
摩耶は、4月8日、藍毘尼(ルンピニー)園にて釈迦を生む。このとき、釈迦が四方に7歩あるいて、右手で天を、左手で地を指し、天上天下唯我独尊と述べたことは有名である。摩耶は出産後7日目に死去し、その妹摩訶波闍波提(マハープラジャパティー)が釈迦を養育した。その後、釈迦は結婚し、耶輸陀羅(ヤショーダラ)との間に羅J羅(ラフーラ)をもうけている。浄飯王の居城の迦毘羅(カピラヴァストゥ)城は、若き日の釈迦が、城の東西南北の門を出て遊び、人生の真実を見つけようとした四門出遊の故事の舞台として知られる。釈迦は、この四門出遊により、若者も老人になる、健常者も病人となる、生者は死者となるという、所謂諸行無常の境界を知り、出家を決意したという。19歳(一説では29歳)のとき沙門となって出家し、6年間の苦行を積むが、解脱を得ることができなかったので、これを中止。尼連禅河に沐浴して身を浄め、村の娘須闍陀(スジャータ)が捧げた乳糜によって気力を恢復した。釈迦とともに修行を積んできた5人の出家修行者たち(五比丘)は、これを見て釈迦が堕落したと思い、離反する。
その後、釈迦は伽耶(ガヤー)城の近くの畢鉢羅樹(菩提樹)のもとで瞑想し、12月8日の未明、ついに開悟(成道・成仏)する。時に30歳(一説に35歳)。成道後21日(三七日)間、解脱の楽を自受したが、その時の心境を菩薩たちに聞かせたのが『華厳経』の教えである。ついで、衆生に対して悟りの内容を説き示すべきか否かを思惟するが、梵天(ブラフマン)の勧請を受けて、ついに法を説くことを決意する。そこで釈迦は、まず鹿野苑(サールナート)に赴き、苦行を共にしてきた五比丘に対して『阿含経』の教えを説く。人間に対して始めて法を説いたところから、これを初転法輪という。その後、釈迦は、王舎城の竹林精舎や舎衛城の祇園精舎を本拠として中印度地方を中心に布教し、『維摩経』『大集経』『阿弥陀経』『般若経』等多くの教法を説いた。釈迦は晩年の8年間を王舎城霊鷲山で過ごしたが、この時に説いた教法が、『法華経』としてまとめられている。『法華経』を説き終わった釈迦は、毘舎離(バイシャーリー)城近郊の竹林で病を感じ、死期を悟って倶尸那(クシナガラ)城外の沙羅樹林に赴く。2月15日、沙羅双樹の間に頭を北に向け、右脇を下に、足の上に足を重ねて臥し、夜半、弟子たちに最後の教誡(『涅槃経』)を垂れて、静かに涅槃(入滅)した。時に80歳。
なお、仏滅年代には諸説あり、紀元前544年、紀元前485年、紀元前383年ともいわれている。因みに、鎌倉時代の定説では、紀元前949年を仏滅年代とする。