生命の四大属性



(1)生命には四大属性がある

 

生命には四大属性がある。

  それは「持続性」と、「拡大性」と、「自主性」と、「絶待性」とである。欲望としては「生存欲」と、「生殖欲」と、「自由欲」と、「同化欲」、としてあらわれる。

 外なる肉の方面から見れば、持続性(生存欲)と、拡大性(生殖欲)とである。内なる霊の方面から窺えば、自主性(自由欲)と、絶待性(同化欲)とが閃く。

         持続性(肉的自主)・・自主性(霊的持続)

外的生命                               内的生命

         拡大性(肉的同化)・・絶待性(霊的拡大)


 自主・持続のないものに、他に対する同化・拡大は行われぬ。そこで生命は、外から見れば個的存在であるが、内の拡がりの究極から観れば、絶待的存在である。

 一念三千である。一即全である。

 生命=持続性・・・・・・拡大性ー自主性・・・・・・絶待性=宇宙


(2)択取同化とを要求する。それが実行せられなかった時に苦痛が起り、それが遂げ得らるれば満足する。そして更に新たなる欲望の境的にと、発展を試みる。



(3)宇宙生命と四大属性


 この四大属性は、人類の生命だけにあるのではない。宇宙を一大生命と観ても、其処にそれが顕現しつつある。

 無生物と名けるものでも、生物の要素となり得る点から見れば、また一体でなくてはならぬ。彼等の存在も、一種の生存だ。鉱物でも生長する。

一往外的に眺めると、鉱物はただ持続性(生存欲)を持って居る。植物は更に拡大性(生殖欲)を。動物は更に自主性(自由欲)を。人類は更に絶待性(同化欲)を表現して居る。が、再往探く考えれば、鉱物にも、彼分斎での四属性は有る。

 高等動物は、素朴な人間の有って居る、飲食・両性・遊戯・社交・に類した、総てのものを具えて居る。たゞ絶待性の純発展たる、萬有に対する

 精神的同化が顕われないだけだ。

 四大属性は、一切のものに遍満して居る。

 これ宇宙自身の、生命のあらわれだからである。





(4)人類の生活と四大属性


 人類の生命の持続性(生存欲)は、適者として存在する 「個人生活」の人類の慾望と四大属性

 此の四属性の、独立した素朴な表われとしては、「飲食欲」と、「両性欲」と、「遊戯欲」と、「社交欲」とがある。

 飲食欲と遊戯欲とは、幼年から欠くことは出来ない。両性欲と社交欲とは、少年になって起って来る。ただ飲食欲だけで満足せねばならぬのは、全く嬰児と病人だ。壮年になると、社交欲と両性欲とが漸次欠き難いものになって来る。

 かような、外面的な表われに対しては、底深い自主性(自由欲)と、絶対性(同化欲)とが、それ等のすべての欲望対象にむかって、自由選択と基礎。拡大性(生殖欲)は、「家族生活」の基礎。自主性(自由欲)は、「国家生活」の基礎。絶待性(同化欲)は、宇宙も世界も渾一的にせねば止まない「精神生活」の基礎だ。

 羽麟爪牙を有せず、猛烈な生殖の欲と力を有せず、より多く自主、自由を好む人類が、他の動物には見られない今日の如き個人や、家族や、国家においてあらわれて居る、文化というものを生ずるに至ったのは、全く内部に、常に絶待性(同化欲)が活動して、究竟的に発展しようとするからである。


(5)国家生活と人類の文明


 しかし人類でも、国家を為すまでは、精神的同化の花実たる、文明文化というものは、有って居なかった。絶待性(同化欲)は、自主性(自由欲)の完全な発展をした上に、幹や、枚や、葉や、花や、実やを生ずるに至った。

 国家によって生れなかった文明はない。国家によって保存せられ来らなかった文明はない。国家によって融和せられ来らなかった文明はない。国家は、文明の母で、保姆で、また坩堝である。国家は根本的文明である。

 幾多の国家は、種々の文明を生んで死んだ。幾多の国家は、種々の文明を、或は破壊し或は保存しつつ、他の国家に伝えて死んだ。広き世界、長き歴史の上に顕われ来った幾多の国家は、或は生み、或は保存して来た。若しも一切の文明を吸収し、之を融合同化し、渾一的にすることの出来る、金剛の柑堝たる国家があれば、それこそ真の意味での根本的文明・統一的文明としての国家である。

 私は日本に、固有の文明がないと、淋しがる人をいじらしくおもう。


(6)文明は総て絶待性の表現である


 文明は、人類精神の絶待性(同化欲)から生じた。此の絶待性の、静的発展を、「智」と名け、動的発展を、「情」と名け、力的発展を、「意」と名ける。

 今宇宙に対する驚駭や怪訝は、対象が精神に同化せられないから起った感覚感情である。それに対して、絶待性の積極的発展をなす処に、宗教が生れ、哲学が生れる。宗教はそれの全的人格的表現。哲学はそれの静的、理性的表現である。科学は部分現象に対する絶待性の静的発展。文芸美術は諸種の部分現象に対する動的感情的表現である。

 『真』も、『善』も、『美』も、絶対性の表現を離れては何ものもない。故に絶対性の全的表現たる宗教は、常にかならず、真・善・美・を具象化した人格と世界とを、象徴的にも顕はしつゝある。


(7)生命必然の発展


 絶待性の究極的発展性は、精神的に、全世界の文明を渾一し、全世界の人生を渾一し、これを社会的に実現し、全宇宙をも精神的に同化統一し了らねば止まないものがある。

 このゆえに、文明統一・世界統一は、生命必然の発展である。


(8)現代の経過と将来の世界


 現代は、自主性(自由欲)の具体的(普遍的)表現としての、国家生活の尚ほ全盛なる時代だ。絶待性の表現たる時代は、次の発展である。

 欧洲戦乱は国家中心時代の当然招いた悲惨で、まだゝこの悲惨を、幾たぴか繰返えさねばなるまい。それが次の時代に移る必須の状態は、時代の中心勢力たる国家そのものゝ孰れかの中から、生命の絶待性の究意発展としての世界の文化統一(絶待性同化欲)の前途のある事を確信し、此の唯一大目的に向って、常住不断の努力貢献をする、そして其の究意実現を国家生活の主たる目的とする。かようの、高く広く探く、聖き意義を充実した国家、その国家の要素として、強固な家族と個人とを有するものが顕われる。その時からである。

 其処に、人類究意の生命は宿り、その真生命を自覚したる、国家・家族・個人・により、世界の渾一的、具体的生命は実現せられる。

 大戦乱が終ったら、一面いよいよ、自主性の発展たる、国家中心の思想は、熾烈に躍動しよう。けれども、絶待性の発展たる精神生活、殊に宗教や、哲学の思想が、また一面にますゝ復活して来るに相違ない。


(9)人格の大小高下と四大属性


 現代の吾等の生活は、個人的、社会的、精神的、の三大方面に拡がり、四つの意義を有って居る。




 人格の大小高下は、四大属性を充実する量の如何にある。わづかに自己の生存・持続・だけに働いて居る生命もある。そして拡大性以下は何かの方法で、両性欲や、遊戯欲や、社交欲を、臨時的に補充する。それすら出来る人と、出来ない人がある。家庭を有ち生存・生殖の両欲は充実せられ、その楽園たる家庭を基礎とし、妻子と共に、遊戯欲や社交欲の上で、自由欲と、同化欲とを満足する。横にそれると、飲食や、両性の上にまで、遊戯欲を及ぽす。そして自己の職務職業に対する、忠実もなく改良進歩も考えず、国家社会に対する助力も、世界的精神的事業に対する助力も全でない。ただ租税と兵役で、他力的・他律的に国家生活に与って居る。こんなのは、いくら幸福に見えても、本人が満足して居ても、財産があっても、名声があっても、精神的生活を有せざる、不完全な生命の持主たる、無意義の人間である。

 職業を有し、家庭を持ち、忠実に勤労して、国家的義務を怠らず、応分の遊戯や社交をも解し、国家・社会・及び精神的事業に対する、直接間接の努力をも心がける。そこに現代における、人生を味って居るものが見える。

 優秀なものは、それ以上に、職務、職業に改良進歩を計り、之を実現する。国家・社会・または、精神的事業に、有益な貢献をする。かような人は、普通人の有つ遊戯欲や、両性欲に欠けたところがあって、無趣味・無家庭の場合でも、その生命の価値は高い。

 さらに、社会・国家・精神的文化・に対して、善良な影響を当時及び後世に及ぽす人は「偉人」だ。

 普通人でも、偉人でも、平等に規定せられねばならぬ所の人類の大道法を創唱し、且つ実現した大人格は「聖人」で、「絶待性」(同化欲)の広大深刻な、全的発展を遂げた人である。

 最小なる人格は、肉的・持続性のみの個的生命である。

 最大なる人格は、霊的・絶待性の究竟的生命である。


(10)佛教と四大属性


 佛陀が、凡夫と銘した一般の人類は、此の生命の四大属性の中、絶待性が究極的生命なることを自覚しないものを目けたのである。 凡夫は、ただ生命の欲求に衝動せられ、盲目的に、部分的に、四大属性の要求を充実せんが為めに、焦慮し、煩悶し、迷想し、妄動する。佛陀は、その絶待性の本質について、盲目的、不覚的なる発展に対して、打撃を与えた。

 それら盲目的なる「持続性」には、『無常』と刻印し。「拡大性」には、『苦』と刻印し。「自主性」には、『無我』と刻印し。「絶待性」には、『空』と刻印した。

 『苦』・『空』・『無常』・『無我』・の四は、生命そのものを泯滅して、其処に涅槃を見たのではない。たゞ、仮相と幻感を亡泯待的・究極的の生命そのものを顕わす前提としたものだ。

 生命の絶待性を究極まで拡充し、そこに円満に、全宇宙を純精神的大観に於いて同化し了り、全宇宙の絶待的生命を以て自己の全生命とし、自己即宇宙、宇宙即自己の境地を体験し、一念三千を実現したる大人格。その体験を以て、一切人類の生命を開顕したる大人格が、佛陀である。

 仏陀は、究竟点において、全宇宙の真生命と同一視せられる。

 宇宙生命の四大属性は、仏陀の生命にありてのみ、其の真実相を顕わして、四大徳性となった。それを四徳波羅蜜といい、三身の内容とする。





(11)本門本尊は宇宙生命の精神的表現である


 法華經の如来寿量品は、この宇宙生命の、絶待的本体としての、一大本佛を説き顕わされた。その説き主は、印度の悉達太子としての、個的肉体の釈尊で、弥陀でも、大日でもない。それを『本門ノ教主釈尊ヲ本尊トスベシ』という。説かれた主体は、宇宙生命としての、常住三身。常顕四徳の、絶待的本佛である。それを釈尊自ら『我』といわれた。その絶待本佛、生命の絶待的本体をば、上行菩薩としての日蓮聖人が象微的意義で 『南無妙法ョ華經』と名け、形相的に表象的に象微して『妙法大曼茶羅』として顕わされた。釈尊と、妙法と、上行とは、而三不三である、不三而三である。それが日ョ聖人の本門本尊観だ。


(12)本門題目は宇宙生命の個的表現である


 個的肉体の釈尊が、その生命の絶待性を究竟して、絶待的生命・宇宙生命の本体としての真相を顕現せられ、一切衆生を、悉く吾子とせられた。即ち衆生の生命は、また宇宙生命の応現である。ゆえに釈尊の唯一大事因縁の教説たる法華經寿量品の真意義を信ずる信の上に、吾等は釈尊の佛子となり、この個的生命の中に『南無妙法ョ華經』の宇宙生命を、分々に実現することが出来、吾等は釈尊と一となり、釈尊と一なる妙法と一となる。衆生と、釈尊と、妙法とは、而三不三である、不三而三である。それが日ョ聖人の本門題目観だ。


(13)本門戒壇は宇宙生命の社会的表現である


 凡夫の世界における生命の表現は、個的生命・個人的生活だけでなくて、社会的生命、精神的生活とまで拡がって居る。吾等凡夫が本門の本尊を信ずる時、精神的生活は、分に吾等の上に、究極的絶待性を開顕する。本門の題目を行ずる時、個人的生活も、分に絶待性を開顕して、おのおの宇宙の絶待生命の光が生ずる。けれどもわれらのこの場合、社会的生活は未だ絶待性を開顕し来らない。ゆえに家庭に絶待の生命を生じしめ、国家に絶待の光を顕さしめ、竟に世界を挙げて、絶待性の究竟精神的発展を実現せしめねばならぬ。その中心には、世界を渾一体として、その全生命を統一する、本門本尊の唯一安立処を要する。かくて、世界と、釈尊と、妙法とは、而三不三となる、不三而三となる。それが日ョ聖人の本門戒壇観た。


(14)四大属性と三大秘法


 人類の精神的生活を、絶待性の上に統一する人格の標準としては、五十年の口輪の説法において、有ゆる宗教思想・哲学思想を説き、あらゆる神格・霊格・十方三世の諸佛・菩薩を説き、最後に、その本体は唯一の『我』なりと説かれたる、『本門の釈尊』を以てし。社会的生活を、絶待性の上に統一すべき標準的国家、即ち戒壇の国としては、その天祖の神勅に、鏡・璽・剣・を授け、『王タルベキ地ナリ』と詔らせられ神武天皇は、その内容を解説し 『慶ヲ積ミ』(璽)・『輝ヲ重ネ』(鏡)・『正ヲ養フ』(剣)・とて、精神的絶待性(同化欲)を表現して、『然ル後ニ六合ヲ兼ネ、八紘ヲ掩ウテ宇トセン』(世界統一)と、宣言せられたる『大日本国』 を以てし。個人的生活を、絶待性の上に統一すべき標準的人格としては、自己一身の上に、本化上行と名くる宇宙生命の分的表現の大菩薩の使命を自覚し、個的肉体而も一漁夫の児をもって法華經を身読し、将来の国家・世界の絶待化の根本大勢力となられたる日ョ聖人を以てする。聖人は又自ら、『法華經ノ行者』と名け、聖人に随う弟子檀那を、『日ョ卜同意ナラバ地涌ノ菩薩タラン歌』と定められた。

 斯の如く三大標準、ことごとく些の空想を用いず、現実活動の結果を以て、一切を率いる。之を本門事観の妙法と称する。

 この三大秘法によって、生命の四大属性は、四大徳性(常・楽・我・浄・)と開顕せられ三大方面(精神的・社会的・個人的・)は、本有三身(法身・報身・応身・)と開顕せられる。

 これを、煩悩即菩提(精神的生命の開顕)・生死即涅槃(個的生命の開顕)・娑婆即寂光(社会的生命の開顕)・の妙義という。

 即身成佛とは、個的生命が即ち絶待的生命なりという意だ。

 事の一念三千とは、ただ『南無妙法蓮華經』である。

夫れ大事の法門と申すは別に候わず。時に当りて、我が為め国の大事なる事を、少も勘えたがえざるが智者にては候也。佛のいみじきと申は、過去を勘え、未来をしり、三世を知しめすに過て候御智慧はなし。(中略)所詮万法は己心に収りて一塵もかけず。九山八海も我身に備りて、日月衆星も己心にあり。然といへども盲目の者の、鏡に影を浮ぶるに見えず、嬰児の水火を怖れざるが如し。外典の外道、内典の小乗権大乗等は、皆己心の法を片端片端片説きて候也。然といへども法華經の如く(全分は)説ず。然れば經々に勝劣あり人にも聖賢分れて候ぞ。

                                      日蓮聖人御妙判