正しい先祖回向は如何にすべきか


本化妙宗聯盟 教導 高橋 智經


  尊い生命

 世の中には、「子のない親は、あっても、親のない子は、ありません。」一人の人間が、この世に生命をいただき人として生活ことが出来るのは、私どもに父親となり、母親となる二人の人間がいたからであります。

 つまり、今、この本を読んでおられる「あなた」の人としての生命と生活は、貴方の両親がおられたからであります。

 『大地の上に鍼を立て、大梵天宮より糸を下して、あやまたず糸を鍼の穴に入るる事は有りとも、我等が人間に生るる事は難く。』(身延山御書)

 『それ人身をうく事はまれなり』

 『今、幸い人間に生まれ』

 佛教での生命観では、生命をこの世に受けて人間として生れることの尊さを日蓮聖人はこのように申しております。そこで私達の生命がいかに尊く大切なものであるかをもう少し考えてみましょう。

 私どもの、この尊く大切な生命と人間としての肉体を下され、今日、生活出来る一番の源とは両親であることは申し上げるまでもないことです。そして、その私どもの両親には、それぞれ父親と母親とがおられます。「あなた」の祖父・祖母です。その祖父・祖母にもご両親がおられます。もうこれだけで貴方がこの世に人として生まれるためには十四人もの専い生命が積み重さなって貴方の生命となり血となって流れているのです。

 さらにこのようにして「あなた」の生命の根源をたずねて遡ってまいりますと爆発的にその数は増えてまいります。

 わずか二十七代遡ってまいりますと、なんと、その数は一億三千四百万人以上の数となります。 人が親となって子を産む年代を20〜30才代といたしますと、約800年ほど、あなたの先祖を遡りますと27代目ぐらいになります。つまり貴方の生命を800年前まで遡りますと1億三3千万人以上の生命が存在していたからこそ、あなたの今の尊い生命があるのです。

 私ども1人1人の「いのち」は、考えれば考えるほど尊く大切な無数のご先祖の生命が、積み重さなった結晶であると思います。

 あなたの生命は、遠く遥かな先祖の何十万・何百万・何千億万という尊い生命が積み、重ね、養なわれて来た、その尊い「いのち」の最先端の結晶として今日、いきているのです。

 『いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命と説かれて三千大子世界にみてて候も、いのちには、かえぬ事なり。』(事理供養書)

と、日蓮聖人は、ひとの「いのち」の尊さについて仰せられております。

 これほど尊い私の「いのち」、そして、貴方の「いのち」をあたえて下された御両親に、そして祖父・祖母に、そして、すべての御先祖に感謝しなければなりません。また感謝せずにはおられなくなります。

 そこに人として、人間として御先祖への報恩感謝の回向供養という思いが自然にうまれてくるのです。

  怨霊・悪霊となる

 ここで考えなければならない事があります。法華経の譬喩品第三という佛典には、

 『諸の衆生を見るに、生・老・病・死・憂悲・苦悩に焼煮せられ、亦た五欲・財利を以ての故に種々の苦を受く、又、貪著し追求す るを以ての故に、現には衆苦を受け、後には地獄・畜生・餓鬼の苦を受く。』

とお釈迦様は説かれておられます。まったくこの通りだと思います。

 私達のご先祖も、そして現在この娑婆世界で生活ている私達も、五欲財利を以ってのゆえに四苦八苦しております。

 お金が欲しい。金さえあれば、と思いつつ死んでいった人、病気で苦しみながら死んでいった人。妻がいとしい、恋人がこいしいと思いつつ死んでいった人。俺が血や汗を流してきずいた財産を、この親や不孝者に残してたまるものかと思いつつ死だ人。この世にもっと生きていたかったと思いつつ戦争で死だ人。社長になりたい。代議士になりたいと権力欲にとりつかれたまま死んでいった人。

 だれでもが、よろこんで死で行く人はおりません。あうもならない。こうもならない。

ああしたかった。こうしたかったと思いつつ、ほとんどの人々が無念の思いで死んでゆきました。

 このような思いを残して死んでいった霊が、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の霊界で、もがき苦しみ、助けをもとめて霊界に、漂よっているのです。

 私や、貴方のご先祖の中に必ず、この世を、「恨み」「妬み」「憎み」「怒り」「のろい」ながら無念の思いで死んでいった人がおります。

 この霊は「怨霊」となって、私やあなたの囲りの霊界(霊界は私どもの囲りの空間がそのまま霊界なのです)にただよっているのです。

 何万・何千億万という数のご先祖の中には、必ず、必ずや、死霊となった霊が私やあなたの囲りにいるのです。決して他人ごとではないのです。

  先祖回向をしない人が多すぎる

 残念ながら私どもの尊い生命の中には、死ぬに死にきれないような思いを残して死んでいった何百何十万人の方々の「いのち」が私達の「いのち」の中に流れているのです。

 それでなくとも私も貴方も、この世に生命を与えて下さった重恩の両親はじめご先祖に報恩感謝の回向供養を申し上げなけれはならないのです。いわんや霊界の三悪道で苦しみ、もがいている先祖の霊をお救いしなければなりません。

 『聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し。悪霊と成てさまだけを成し候也。』

と日蓮聖人は「回向功徳抄」で仰せです。

 ところが、今日の一般的な人々は、回向供養についてどう思っているかというと

 一、父母やご先祖のことより、この世の自分の生活だけで勢いっぱいですよ。

 二、私は分家ですから佛壇はありません。実家の兄がやってますから。

 三、家がせまいし、佛壇を置くところもありません。

   もっと、ひどい人になりますと、

 四、人間、死んだら空ですよ。霊界とか幽霊なんか有りはしませんよ。私は霊界も幽霊も見たことありませんしね。回向供養なんて   無意味ですよ。

と言う人が残念ながら、かなりおります。

 最近の世論調査、日本人の80%の人々の本音は死後はカラッポになると思っていると考えているそうです。(平成4年6月・中外日報新聞)

 なんと親不孝なことでしょう。なんと御先祖様に対する不孝者なのでしょう。自分に尊い大切な生命を与えて下さったその重恩の方々に対する不知恩の者、畜生にもおとるものの考え方でしょう。

 『身体髪膚を父母にうけ、撫育慈愛を蒙る身の、親(先祖)の菩提を祈らず、剰え種々の悪業を造て、亡者に苦を添んこと、返返浅間しき事なるべし。』(十王讃歎抄)

 人間、死んだらカラッポだよ!と思い親やご先祖の菩提にご恩を報じない不知恩の、不孝者がこの世で好き気ままに五欲にほだされ、財利を求める生活をしている事をは『悪業を造て、亡者に苦を添る』ことなのです。

 そのような人や、そのような家の者にかぎって、ああもならない、こうもならないと苦しみの連続の生活をしているのです。

 家族の者が病気で入院したり、経済的にうまくいかない。一家の主人が酒だ、女だと遊びまくり、子供が親不孝をする。競馬だ、競輪だ、損したの、だまされただの等々数かぎりない、悩み、苦しみ、悲しみ等に焼煮されて、貧して、貪して、身体も心もポロポロになり、家庭も家族もバラバラになってしまうのです。

 日蓮聖人は有名な「立正安国論」の中で

 『傍を好んで正を忘れんに善神怒りを成さざらんや、円を捨てて偏を好まんに悪鬼たよりを得ざらんや。』

と仰せられて、不知恩な者、死後はカラッポと思っている者、神や佛なんかあるものか、あるなら見たいものだと思うような正しくない、かたよった、ものの考え方、ものの観かたをする者の、家からは、その人や家の守護神は、怒りをなして、去ってしまい、そこに悪霊となった悪鬼が、その人や家にやってきて、たたりをなすのです。

 『父母の物をゆずられながら、死人なれは何事のあるべきと思うて、後生を訪ざれば悪霊と成り、子子孫孫にたたりを成すと、涅槃經と申す經に見えたり』

と日蓮聖人は仰せです。

 今の世の人々は、生物学的人生観・経済学的社会観・唯物学的宇宙観をもととして、弱肉強食・優勝劣敗・適者生存とゆう『傍』『偏』の者となり『正』『円』を忘れ、捨ててしまっている。

 そのような者、このような家に、聖霊は悪霊・怨霊・悪鬼となって『さまたげを成し・たたりをなす』のです。

 お釈迦様は、

 『国土乱れん時は、先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱れる』(仁王經)

と申されています。

 国土を家に、万民を家族に置きかえて読でみますと、わかりやすいです。

 「家が乱れん時は、先づ先祖の悪霊・怨霊が鬼神となって、その家の者にたたりをなして乱れるから、家族の者が暴力をふるったり、病気になったりして、乱れる」

ということになります。なんと恐ろしい經文でしょう。よくよく考えねばなりません。

  知恩報恩のまごころで回向供養をすべし

 『我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。』(忘持經事)  

 『御身は過去聖霊の御身の容貌を残し置かれたるなり。譬へは種は苗と成り、華の果と成るが如し、真の華は落ちて果はなり、種は隠れて苗は現に見えたり。』

と 「法蓮抄」で日蓮聖人は申されてます。

 私の身体・あなたの身体は父母・祖父祖母・ご先祖の方々から連綿としてつながり、そして生命という「業」という「因縁」も連綿としてたえることなく続いてきているのです。その尊い生命、『今、幸い人間に生まれ』させて下さった、その連綿と続いている方々に大恩にむくゆるためにも「先祖回向」をしなければなりません。

 そして、悲しく、無念の思いで死んでゆかられ、霊界で苦しんでいる「あなた」のご先祖をお救い申し上げなけれはなりません。それが真実の孝道です。

 「親、孝行したい時には、親は無し」などと世間では申しますが、佛教では「死」でしまった親や先祖に孝養は出来るのです。

 先祖への回向供養は、先づ尊い生命を与えて下さった方々への報恩感謝という気持ちで行うべきであるし、人間としてごくごく当然なことなのです。

 ところが最近の新興宗教のお教え方は、まったく逆の考え方で、傍であり、偏の自分中心の取り引き供養を教え、そして「先祖回向」という清く美しい人の真心を利用した金もうけ宗教なのです。

 一、あなたに、悪霊がついているから、除霊してあげましょう。

 二、あなたの先祖霊が地獄で苦しんでいるから、回向してあげましょう。

 三、あなたの家族の病気は、先祖の悪因縁ですから「因縁」を切ってあげましょう。

 四、商売・繁盛のために、守護霊をもちなさい、祈念してあげましょう。

 五、墓相・印相が悪いから、先祖が浮ばれないから、おがんであげましょう。

等々、かぞえあげたら、キリがないほど、迷信の新興宗教が人々を「だまして」先祖回向としょうして、金もうけ祈祷をしていますし、原因がわからずにこまっている人々は自分の今の苦悩からのがれるために、お金を払って迷信祈祷師や行者におがんでもらっているのが現在の霊魂ブーム・祈祷ブームなのです。

 毎日、毎日、新聞広告や、宣伝のチラシに「大除霊」とか「守護霊をもて」等のものが必ずあります。

 自分の迷い、苦しみから逃れるため、自分や家族のための回向であり供養という、人間として最も大切な「恩」を忘れた、回向では、ますます『悪業を造って』先祖に回向することになってしまう、これを『追悪回向』と申します。

 知恩報恩の追善回向でなけれはなりません。自分の幸福・運勢の好転することを願う

ガリガリモウ者の回向は回向供養になりません。

  法華經による回向供養でなければならない理由

 私の家は代々「念佛宗」です。「真言宗」です。「禅宗」です。そして最近「キリスト教」ですと言う人もいます。念佛宗・真言宗・禅宗・キリスト教の宗教で先祖回向が出来るでしょうか、結果から申し上げましょう。答は「NO」です。そのわけを、ごくごく概略的に申し上げましょう。

 一、念佛宗では、この娑婆世界は苦悩充満の世界であるから「阿弥陀如来」をたよって、極楽西方浄土の世界に「往生」することになっております。教義的に、極楽世界に往生して「きわめてらくをしている」先祖の聖霊に対して、娑婆世界でアップアップしている人間が追善回向は出来ないし、する必要もないことになっています。

 「ナムアミダブツ」と一遍でも念佛を唱えれば、だれでも阿弥陀如来の慈悲で極楽に往生出来ることになっています。

 しかし、これは釈尊の方便のおしえで、人間は西方極楽浄土には行かず、この娑婆世界の中にある霊界にただよっているのです。

 本来、念佛宗では、死んだら極楽世界に往生したことを立て前としているので私達凡夫はご先祖を回向供養出来ないことになっているのです。

 二、真言宗では、真言宗の信者は死だら大日如来の密厳浄土に生れることになっており念佛宗と同じようにご先祖は密厳浄土の世界で救済されて苦のない生活をしていることになっております。ですから、私達、娑婆世界の者が回向供養する必要がないことになっております。

 しかし、これもお釈迦様の方便のおしえで、娑婆世界の人間は、死んでも密厳浄土という架空方便の世界に行けるわけがありません。娑婆世界に即した霊界で先祖霊は苦しんでいるのです。

 三、禅宗ではどうでしょうか。本来、禅宗では自力本願と申しまして、私どもが座禅さん三昧によって「さとり」を得て成佛することになっております。ですから、「さとり」を得ないで死んだ先祖の霊を「さとり」を得ていない私達が回向供養を出来るわけがありません。しかも「不立文字」と申しまして、禅宗には本来「お經典」がありませんし、読經もしないことになっています。ですから追善回向の法要も本来ないのです。

 しかし、禅宗のお坊さん達は宗教と言う名のもとに、教義的にありもしない追善回向の法要をしております。ですから日蓮聖人は、禅宗をば人をたぼらかす天魔の宗教であると断言されております。

 四、キリスト教では、人間は神によって造られ、人間の祖・アダムとイブが神にそむき、その罪を人類は背負っており(これを原罪と言う)この世にある者は、神にそむいた罪を神の前にて懺悔して、許るしを得、そして死で神の世界に(天国)に行くことになっております。キリスト教の教義では、神によって造られた人間が、神によって造られた人間をば天国に送ることは出来ないようになっています。キリスト教の神学では先祖供養・先祖回向という教義も、祈りもないのです。日本だけは、今から五年ほど前に特別に先祖回向のミサをすることがバチカンより許されましたが、キリスト教では前にも申しましたように追善回向はないのです。しかも、キリスト教を信仰しない者は、永遠の地獄に堕ることになっており、その者は永遠に救済されないことになっております。

 五、その他の新興宗教、特に最近の新興宗教はことごとく迷信邪教で、佛教やキリスト教や道徳倫理等をゴジャゴジャに混ぜ合せた教義(良い所を選んで創ったとウソをいっている)で、とても正しい回向供養など出来ません。

  法華經は一切經の中の超勝經典

 それでは、いかなる經典により、いかなる宗教でなければご先祖の聖霊に正しい追善回向という大孝養は出来ないでしょうか。

 答は、「妙法蓮華經」というお釈迦様の本懐の經典と、それをもととして末法という今日の濁悪世界を救済するために本佛お釈迦様より使かわされた最高の弟子である本化上行菩薩である日蓮聖人により建立伝弘された「本化妙宗」の宗教でなければなりません。

 お釈迦様は開覚成道なされて、

 1、最初の37日に「華厳」部の諸經を説れ、

 2、つぎに12年間にわたり小乗の「阿含」部の諸經をとかれ、

 3、つぎに8年にわたり「方等」部の諸經として、浄土三部經や、大日三部經、それから深密經や   薬師經などの一般大乗經をとか   れました。

 4、そして2年間にわたり「般若」部の諸經をとかれ、

 5、つぎに8年にわたり「法華」部のお經をとかれ、最後に涅槃經を1日1夜お説きになられました。

 これをお釈迦様の五時説法」と申しまして、その最後の「法華經」を説法なされる前に有名な「無量義經」というお經を説かれて申されますには、

 『善男子よ、我、先に道場菩提樹の下に端坐すること6年にして、阿耨多羅、三藐三菩提(さとり)を成ずることを得たり。

 佛眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。ゆえは云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり、性欲不同なれば種々に法を説き、種々に法を説くことは方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕はさず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提(成佛)を成ずることを得ず。』

と仰せられました。

 何としたことでしょう。華厳・阿含・方等・般若の諸經の「四十余年の諸經の説法」は、これみな「衆生のそれぞれの機根」に応じて説いた未だ真実を顕わさない『方便』のおしえであるというのです。そしてこれから説く『妙法蓮華經』こそが、生けとし、生けるもの、すべてを成佛させる、本佛お釈迦様の本懐のお經典だというのです。

 そして「妙法蓮華經」が説かれ、

 『釈専の(すべての功徳である)因行果徳の二法、この妙法蓮華經の五字に具足』されて、その大功徳の妙法蓮華經をば、本佛お釈迦様の最上の弟子たる本化上行菩薩(日蓮聖人として応生される)に付属されて、末法時代という濁悪・暗黒の世界で

 『日月の光明の、よく諸の幽冥を除くが如く、この人(日蓮聖人)世間に行じて、よく衆生の闇を滅して、無量の菩薩をして、畢竟して一乗に住せしめん(妙法で成佛させる)』(妙法蓮華經神力品)

と仰せられておられます。

 日蓮聖人の上行所伝の題目でなければ、真実の回向供養は出来ませんよと、本佛お釈迦様が断言なされているのであります。

 このお言葉には、何人も反論出来ないのであります。絶対の真実なのです。

  美しく、清い功徳に満ちた尊い生命の流れ

 人は、だれもが、いつまでも生きていたい、死にたくない、活きていたいと思いつつ死んでゆきます。その「いきて」いたいと思う生命が積み重なって、今の私の生命があり、貴方の生命が生れてきました。

 この尊い生命の中には、ご先祖の苦しさも、さまざまの無念・因縁・悪業も含まれております。そして、現実に怨霊・悪霊・悪鬼となった何千万億の先祖の霊が私達の囲りをただよっておりますから日蓮聖人の「南無妙法蓮華經」という絶対の真実のおしえの功徳を回向して供養しなければなりません。

 今の私の生命、そして貴方の生命は、過去何百何千万億の生命であり、そして、今の私の生命から、未来に向って、何千・何万・何十億万という生命が生まれてゆきます。

実は私の生命であって、私の生命ではないのです。

 遥かな御先祖からおあずかりした「いのち」。そして未来に伝え拡大する尊い「いのち」 なのです。

 私に生命をあたえ、あずけて下さつた両親に、祖父に、祖母にそして、すべての御先祖に感謝し、あなたに流れる生命の流れを、よりよく清め、より功徳に満ちた「いのち」に変えて未来の子孫に伝えてゆかねはなりません。

 その方法は、日蓮聖人に伝えられ、弘められた「妙法蓮華經」より外にはありません。

美しき、生命の流れを創るのは日蓮聖人の信仰によらねば出来ないのです。

 今や、私にも、あなたにも、すべての人々に、その美しく、清らかな尊い生命の流れと、大善、大功徳の生命を創る方法を日蓮聖人より学べる機会を得ました。

  妙法五字の受持から始まる正しい回向

 法華經の化城喩品第七に、

 『願わくば此の功徳を以って普く一切に及ぼし我等と衆生と、皆共に佛道を成ぜん』

とあります。日蓮聖人の 「十王讃歎抄」に、

 『孝養に三種あり、衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす。存生の父母にだに尚を功徳を回向するを上品とす。況や亡き親においてをや。』

と仰せです。正しく御先祖に回向供養するには、正しい功徳を積み、重ね、養しなわなければなりません。その功徳が大善であり、その大善をば御先祖に追善回向するのです。

 では、どのようにすれば、正しい功徳を積み、重ね、養うことが出来るのでしょうか。

日蓮聖人は、このことについて、

 『日蓮が色身は父母の遺体なり。日蓮が色身、佛になりしかば、父母の身も又佛なり……目連尊者が法華經を信じまいらせし大善は、我身、佛になるのみならず、父母佛になり給ふ。

 上七代・下七代・上無量生・下無量生の父母等、存外に佛になり給ふ。乃至、子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を離るるのみならず皆、初任妙覚の佛となりぬ。』(孟蘭盆御書)

と仰せられています。上無量生の御先祖と下無量生の子子孫孫に清く正しい功徳を回向するためには、先ず自分が正しい法華經の信仰者になり「即身成佛」して、その「成佛」した功徳をもって追善回向するのです。

 念佛宗や禅宗・真言宗やキリスト教、いわんや迷信邪教の新興宗教のあやまれる教義法門の「傍を捨て、偏を捨て」正しい法華經・日蓮聖人の御教たる「正を好み、円に帰依する」ことが、貴方が佛になる第一条件です。日蓮聖人は、

 『汝、早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ』

と仰せられています。『実乗の一善』とは、つまり『法華經』に帰依し、信行することです。その信行が成佛への道であり功徳なのです。『聖愚問答抄』には、

 「此の妙法蓮華經を信仰し奉る一行に、功徳とて来らざる事なく、善根として動かざる事なし。』

 『此の法華經は三途の河にては、船となり、死出の山にては、大白牛車となり、冥土にては、燈となり、霊山へ参る橋なり。』(波木井殿御書)

 『この法華經の一字の功徳は釈迦多宝、十方の諸佛の御功徳を一字におさめ給ふ。』

 妙法蓮華經には大変な功徳があります。この妙法を受持し、信仰して下さい。日蓮聖人の信仰以外では佛になることが出来ません。日蓮聖人の信仰によって功徳を得て、それを回向して下さい。これが真実・絶対の道なのです。

 必ずや御先祖の苦患をお助け出来るのです。父母はじめ御先祖への最高の孝養となるのです。

 『釈尊の因行果徳の二法、妙法蓮華經の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれは自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。』

と「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」にありますように、本佛お釈迦様の大善の大功徳は、妙法蓮華經の中に込められており、それを受持し、信仰すれは自然に成佛の大功徳が与えられるのです。

 さぁー「妙法蓮華經の五字を受持して下さい。」

  正しい回向供養の方法 その一

 では具体的に『妙法蓮華經の五字を受持する』とは、どのようなことかと申しますと

日蓮大聖人の親奠の『本門の大曼陀羅御本尊』を受持することです。

 御本尊を正しく勧請(お祭りする)し、正しく信行するのです。

 大曼陀羅御本尊に向い奉まつり、御先祖の聖霊の菩提増進を祈念しながら大至誠心に在して読經唱題をいたします。

 読經・唱題する時の大至誠心・菩提増進を祈念する祈念力は、

 『湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く。』(呵責謗法罪抄)

の「強盛の信力」でおこなうのです。

 『一心欲見佛・不自惜身命』の心で祈念回向をいたしますと、その大至誠心の祈念力が大御本尊をとうして、佛をうごかし、法をうごかします。それが、そのまま佛力となり、法力となって、私達の信仰祈念力の信力とが、融被一如して霊界の聖霊に回向供養されるのです。

 祈念・祈祷というのは、佛力・法力・信力の「三力」が一つになって、はじめて効験があります。これを三力の「融被一如」と申します。

と、こうなりますが、こうなりますと純正熱烈な信仰心のない者、大至誠心のない者などが、いくら追善回向しても、故人や御先祖の聖霊にひびかず、菩提増進にならないことが、よく分るとおもわれます。

 年回法要などに、形式的・習慣的にお經を読み、客に酒や料理を振舞っても、何等の追善にも回向にもならないことを知らねばなりません。

  正しい回向供養の方法 その二

 私どもの祈念する心・私どもの大至誠心そのものが、大善の功穂ではないのです。大善の功徳をば、大至誠心にのせて信力として佛力・法力に一如するのですから、功徳を得なければなりません。前にも申しましたが、その大善の功徳とは、先ず私どもが即身成佛しなければなりません。私どもが生活ながら成佛する、成佛することが功徳力となるのです。そのためには正しい日蓮聖人の信仰者になることです。日蓮聖人は、

 『何にも今度、信心をいたして法華經の行者にて日蓮が一門となりとほし給ふべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩に定まりなは釈尊の弟子たる事、あに疑ふべきや。經に云く、我従久遠来・教化是等衆とはこれ也。末法に妙法蓮華經の五字を弘めん者は男女は嫌ふべからず。』(諸法実相抄)

と申されております。

 日蓮聖人の信者になり、そのまま本佛釈尊と同体となって即身成佛いたします。即身成佛したならば、佛の誓願である「妙法五字を弘める」のです。

 法華經のため、日蓮聖人の正義のため、不惜身命で、汗を流し、涙を流し、血を流してまでも不自惜身命で法華經の広宣流布に精進するのです。その佛の行道が、そのまま大善の大功徳となるのです。それがそのまま大信力となるのです。

 こう書きますと、なんと大変な事であろうと思われるかもしれませんが、それほどむずかしい事ではないのです。

 法華經の宗教法話会に友達や知人をお訪いして参加し。法話会に参加すること、その事が大善の功徳であり、知人をお訪いすることが功徳回向となるのです。

 法華經の正義・日蓮聖人の正義のパンフレットを施本したり、教箋ビラを1枚1枚配布します。その配布することが大善の功徳であり、それをもらって読で下さる、その人も大善の功徳を得るのです。多くの人々に法華經の功徳が回し向けられ展転してゆきます。その。パンフレットやビラを配布しそれが展転し、回向してゆくその大善功徳のみなもとは、それを配布した人に集り、大功徳力、そして、そのまま即身成佛となります。

↓←過去無量生の御先祖に功徳が回向される)(未来無量生の子孫に功徳が回向される)→『御先祖 → 父母 →我(法華經信行の功徳で即身成佛した私)→ 子子孫孫』

 即身成佛の大善の功徳が御先祖にまで回向され霊界での苦悩からお救し、功徳に満ちた清い美しい生命の流に変えて、あなたの子孫に、その尊い生命を伝えて下さい。これがあなたの今世での使命であります。